オルタナティブスクール=Alternative School
Alternative → 選択肢・代替案
School → 学校・校舎
公立小学校のお友達とのトラブルが続いたとき、息子の公立校以外の学びの可能性について調べました。
オルタナティブスクール
ヨーロッパのシュタイナー学校やアメリカのホームスクールに見られるような非常に強い政治的、学術的、宗教的または哲学的な方向性を持つものがある一方、アメリカのチャーター・スクールに代表されるような既存の教育手法に不満のある教師や生徒が集まって作りあげた学校もある。(出典:Wikipedia)
オルタナティブスクールはフリースクールの一つ、という認識は過去のものになりつつあるような気がしています。
自ら学ぶ子供たちの学び舎。
積極的に、学びを選択していく生き方。
「これがオルタナティブスクールです」と言い切ることはとても難しいと思います。
在籍している子どもの個性によっても、そのときスクールでやっていることを言語化したアウトプットは大きく変化すると思うからです。
公立校以外の学び
ホームスクーリングという言葉を聞いたことがあるけれど、実際わが子にそれができるだろうか?
私は、机に座って鉛筆を持つことすら拒絶する息子に、家で勉強を教え続ける自信が全くありませんでした。
子どもが学校から帰ってくると、宿題をいつやりはじめる「そぶり」を見せるのか、脂汗をにじませながら(笑)見ていました。
いやな親ですねぇ。。。
だったら、いっそのこと
「宿題やりなよ!」
と怒鳴ったほうがどれほど自然なことだったかと。
学校の疑問
「学校での勉強が、本当に将来役に立つの?」
これは、息子が4年生ころに言っていたこと。
算数は電卓で出来る。
知らない言葉はスマホですぐ調べられる。
漢字や計算方法を身につける意味がわからない、と。
親●智●●さんの本を買ったり、●んこ漢字ドリルを買ったり、モンテッソーリや七田教育研究書の本、子どもが生まれる前に買った本を読み返したり。
そこで得た知識
「学校で習った内容は、社会ではそのまま使わないかもしれない。でも、習得するまでの工夫や学び方を身に着けることが大切なんだ」
と言ってみても、目の前で泣き叫び、プリントを破り捨てる息子の前では、穏やかな心はふっとんでしまっていました。
本当は嫌な気持ちがあることを押し殺して学校に通うことに、どんなメリットがあるのか。
学校のような区切りのある空間で続いていく人間関係や時間の認識は、現実社会を生きていく上で役に立つことは、大いにあると思います。
公立校でその学びが出来る子は、公立校でじっくりと学べばよいと思うのです。
わが子には、公立校でのその学び方が、あわなかった。
サイズの違う洋服を着せられたときのように、不愉快だった。ということだと思ったのです。
サイズの違う服で苦しんでいるのなら、ぴったり合う洋服を探すように、子どもが洋服のことなど気にすることなく生き生きできる場所を探すのもひとつの選択だと思います。
自ら。主語は I
息子の通うオルタナティブスクールの代表の方が、最初の面接のときから何度も繰り返し伝えてくれた言葉です。
自ら選ぶこと。
自らが選んだことだと自覚すること。
選んだ学びに、自信と責任を持つこと。
公立校が合わなかった子供が、自分で学びを選ぶとして。
親は何ができるのでしょうか。
経済的なサポート? →必要ですよね
心理的なサポート? →きっと必要ですよね
では、わが子へのサポート、素直にできるのか?
私は、全くできませんでした。
公立校に通うほかのお友達が、たくましく成長した姿を見ては、わが子と比べてしまう。
わが子が約束を破ってしまったり、約束を忘れてしまったとき、きつく追求してしまう。
わが子は涙目でうつむきます。
そうして「ハッ」と気がついて、自責の念にかられるのです。。。
面倒くさい人間です、私(笑)
各自が自分の人生に責任を持つ
子供の人生は、子供の人生。
私の人生は、私の人生。
夫の人生は、夫の人生。
それぞれが、それぞれの人生に責任を持つこと。
そう思うと、子供に伝えたいことが言いやすくなりました。
「私(ママ)は、それが好き / 嫌い」
うつむいて涙目になっていたわが子も、少しずつ、自分の意見を言ってくれるようになりつつあります。
親子間の風通しが少しだけ、良くなりました。
ママ/パパがステレオタイプから自分になろう
よいお母さん、素敵なパパさんになろうとするのではなく、ひとりの人間になることが私にとって最初にしておきたかったことです。
見えない「よいお母さん」像に、少しでも近づきたくて、離れてしまうことが怖くて、自分で自分を苦しめていました。
子ども達も、苦しそうに努力を重ねるお母さんを見ていると
「大人って大変そう。結婚って辛そう」
そう思って明るい未来を想像できなくなってしまいます。
私が、私という人間であること、私でいてよいことがわかったら、子どもも、子ども自身でいていいのだと感じてくれているように思います。